秋深まる11月、山田先生と二人で1級3科目の受験を申し込んだ。
申し込みが11月で試験が3月だったから、申し込んでからの勉強になる。
3月の受験の頃、まずいことにうちではトトカルチョが流行っていた。
いきおい、私と山田さんに馬名と寸評がつき、それぞれ3科目合格から合格なしまでの4×4のマトリックスの表ができ、スタッフがトトカルチョをはじめた。もちろん出走する2人を励ますためのものだ(と信じている)。
当然に「出走者の私と山田さんは、自分自身の全科目合格にしかかけられない」というルールまで付いていた。
年が明けて1月1日。なんとかして通ってやろうと思った私は元旦から2日にかけて14時間、一番合格が難しいと思われた財務分析の勉強をした。財務分析は70個ほどの経営指標(率)を覚えなければならない。「見ればすむようなものを覚えなければならないなんて、人間としてなんと屈辱的な行為なのだろう」と思い、これがどうしても嫌な私は、数多くの経営指標から統一的なルールを見つけ出した。
たとえば「総資本経常利益率などの○○××率はかならず、○○が分母で××が分子になる。」とか「自己資本比率などの○○率の場合は○○の自己資本が分子になり、その分子が全体としているもの(総資本)が分母になる。」といった具合である。
そうすれば、8個ほどのルールと、それから外れた10個足らずを覚えればすむことに気がついた。
そうして受験し、私は全科目、山田さんは財務分析を除く2科目に合格した。しかし、3科目の合計点は、明らかに山田さんのほうが高かった。完璧主義の山田さんらしく、2科目は満点だったろう。しかし(主催者が)通したい(と思っている)試験では、合格すれすれの点をとりにかかる私の方が有利だった。
トトカルチョも、私の総取りになった。
しかし…この幸運な合格が激務の始まり。
その年の6月の終わりに建設業経理事務士の試験問題が開放され(著作権がフリーとなり)本が出せるようになった。そして不覚にもそのことを知ったのは8月のはじめだった。
今年ならライバルも少なく、勝てる。しかし次の試験に間に合わせるには、9月中には刊行しなければならない。期間は1カ月強。この間に1級3冊に3級2級の合計5冊を刊行しなければならない。
そこで、当時テレアポをやっていたメンバーまで含めて全スタッフ総勢16名を集め、それを5冊に割り振り、軽井沢の印刷会社の持つ別荘を借り切りって1週間ほどの合宿をして、とにかく書きまくり書きまくり何とか書き上げた。私は率の覚え方だけで合格してしまった財務分析の担当になり、四苦八苦するハメになった。
書き上げれば今度は校正がおおごと。他の仕事もあり、会社に泊まるだけではすまず、また何度も軽井沢で合宿した。
そうして何とか5冊を9月中に刊行することができた。刊行日は9月20日、私の誕生日にしてもらった。
それ以来、我々にとって軽井沢は避暑地で遊びに行くところではなく、突貫工事の原稿を書きに行くところになってしまった。
桑原